ローソクの炎

ローソクの炎

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

先日、「外国につながる発達障がい児への支援の現状について」というテーマで、支援者のための研究会を行いました。日頃から多文化共生社会を目指して、外国人の方たちのための医療通訳、災害時支援、相談事業、教育の推進を行っている機関から講師を迎えました。

支援者同士の情報交換では、外国につながる人たちの就労の話になり、講師から次のような話を聞きました。「コロナ禍で製造業の工場を解雇された外国の方がいて、今は介護の仕事についているのですが、製造業では『おいっ』としか言われたことがなかったのだけれど、介護の職場ではちゃんと名前を呼んでもらえるので嬉しいと言っていました。お給料の面では製造業のほうがいいのですが、介護の仕事のほうがやりがいがあるようです」と。

この話を聞いて、何だかとても悲しくなりました。名前を呼んでもらえないなんて、人として尊重されていないような気持ちになるでしょう?名前はその人固有の呼び名ですから、その人そのものなのです。ふと「千と千尋の神隠し」で、千尋が湯屋で銭婆に名前を奪われて千という数字で呼ばれるようになったことを思い出しました。でも、「おいっ」という呼び方は、数字で呼ばれるよりももっとひどいような気がします。

例えば、辺りが暗くなってから、一つの部屋に年齢も性自認も国籍も肌の色も信仰などもさまざまな人たちがたくさん集まっているとします。見た目には色トリドリ、みんな違う人たちです。その人たちが一つずつ火のついたローソクを持っているとします。そして部屋の灯りが消えて、人数分のローソクの火だけが暗闇の中に浮かび上がります。その火が命だとします。ローソクの火はただ中心の芯を燃やしているだけ。みんな同じ炎です。そこに格差はありません。差別されることもありません。それが命の本質だと思うのです。

これは私が大学の教員だった時に、実際に行ったいのちの授業なのですが、そうやって初めて、ローソクの炎に例えられた命には違いがないことが目で見てわかるようになります。赤ちゃんであろうが、高齢者であろうが、女性であろうが、男性であろうが、日本人であろうが、外国人であろうが、肌の色が何色であろうが、障がい者であろうが、健常者であろうが、どの宗教を信仰しようが、どのように生まれようが、どのように育てられようが、できることがあろうがなかろうが、命に格差はありません。その人が持っているものに関係なく、みんな同じように大切な命だし、大切な人なのです。

研究会の最後に、参加者の一人がこう言いました。「せっかく日本を選んで来てくれた人たちなのだから、あ~日本に来てよかったな~と思ってもらえるように支援したいと思います。外国につながるこどもたちが、日本で安心して過ごしていけるようにみんなで応援しましょう。」私も心からそう思います。すべてのこどもたちは宝です。すべての人は尊いのです。みんな大切にしたいと思います。

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