存在する時間

存在する時間

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

伯母の納骨のために小さな漁師町のお寺に行きました。この写真は、愉快な仲間たちが送ってくれたその町の海です。綺麗でしょう。母方の旧姓から察するに、私たちの先祖は海賊だったという言い伝えがあります。でも、お酒の席で笑いながら親戚たちが話していた内容なので信憑性は低いかもしれませんけど(笑)。

この海は、原子力発電所を作るという計画から守られた海です。今年、柴原洋一さんが『原発の断りかた ぼくの芦浜闘争記』という本を出版されましたが、私の伯父はその活動の第1回戦を支えた人でした。政府の要人が海上で視察をする時に、漁師達が抗議のために船を出し、要人の船に乗り込もうとした漁師を止めに入って逮捕されたというエピソードを、伯父の口から直接聞いたことがあります。その伯父も20年ほど前に亡くなっています。

以前、「海」というブログで、私たち人間の身体を構成するおもな元素の組成は、海水の組成とよく似ていて、ことに羊水は海水とほとんど同じであるとご紹介しました。進化論では、生物が海から陸にあがったことで、ヒトとして進化していったと言われていますが、羊水と海水がほとんど同じ組成であることは実に興味深いと思っています。

納骨で、お寺の近くのお墓にいる時に、山に生い茂る木々の葉がザワ~っと音を立てた瞬間がありました。海風が吹いてきたのです。タカが何羽も上空を羽ばたいていました。何だか少し不思議な気持ちになり、その時にふっと頭をよぎった疑問がありました。

「生まれる前」と「死んだ後」の時間は同じ価値を持っているのだろうかと。

私たちは生きている間はこの世に存在しています。でも、その前後は私たちの体は存在していません。生まれる前の時間~生きている時間~死んだ後の時間という流れですね。つまり、「生まれる前」と「死んだ後」は同じようにこの世に存在していないことになります。ということは、その時間は同じ価値を持っていてもおかしくありません。

でも、「生まれる前」には喪失を伴わず、逆に希望に満ちているとも言っていいかもしれませんが、「死んだ後」には喪失という苦しみを伴います。生きている間の人との関係性の中で刻まれた記憶から生まれる感情という側面から考えれば、「生まれる前」と「死んだ後」の時間は同じ価値にはならないのかもしれませんね。

このような他者への愛着は、乳幼児期に形成され、その後もさまざまな形で周囲の人たちへの愛着として発展していきます。この愛着という愛情の絆が、死がもたらす喪失という苦しみを生み出すのです。だからこそ、仏教では自己が存在するという幻想から自分を解放しようとします。自分が存在しなければ何一つ失うことがないからです。「自分というものはもともと無いのです」このように考えると、「生まれる前の時間」も「生きている時間」も「死んだ後の時間」もすべて同じ価値を持つのかもしれないですね。今回は哲学的な回でした。

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