精神の過程

精神の過程

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

インターネットの記事に、中沢新一さんの『精神の考古学』のレビューが掲載されていました。その中に興味を惹かれた文章がありました。本のまえがきに、中沢さんが次のように書いたというのです。

「人間の精神(心)の深い地層にまで潜って行くと、しだいに言語的思考の影響力が弱まり、消えていくようになる。精神は自然状態の運動性や光輝を取り戻して、自由自在な活動をおこなうようになる」と。そして、本の帯には“思考を野生に戻す”と書かれていました。

まさに、河合隼雄さんが生前話していた“中年期の野生”に通じる考え方なのではないかと思っています。ですので、私が現在考えている(まだまだ発展途上ですが)、精神の過程の仮説を言語化してみます。

私たちは、この世に体を持って生まれてくる前も、死んで体が無くなった後も、精神を持ち続けています。今、目に見える姿で地球上に存在しているのは、その条件が揃っているからにすぎません。現在の私たちは、体を通して精神によるエネルギー活動を行っているにすぎないのです。

精神はもともと自然運動を行ってきました。その運動に時間や空間の概念、つまり時空の概念はありません。また、言語などの二元性の世界で規定されるような不自由さもありません。精神はもともと自由自在なのです。その自由な精神が、体という容れ物に乗りながら、地球という二元性の世界に生きることを選択することで、私たちはこの世に体を持って生まれてきます。

生まれてから10才頃までに、この地球上で生活する基本的な準備を整えます。10才という完全数の年齢までに、感覚は鈍感になりながら、人間としての冷徹な価値観や人間として生きる社会性を身につけていきます。脳のネットワークが全てうまく繋がるのも10才頃ですし、視力の完成も10才頃だと言われています。また、運動能力を即座に身につけることができるゴールデンエイジと呼ばれるのも10才頃なのですね。

ここから地球生活の本格的なスタートです。性的な役割自己を生き、家庭生活を体得し、後世に子孫や生きた証を残す作業を中年期まで行います。この頃には、地球上の価値観にがんじがらめにされ、精神の自由さは失われています。善か悪か、有か無かなどの二元性の世界で生きるようになるのです。もともと精神は自由で直感的なのですが、その精神さえも言語化され、二元性の世界に落としこまれていくのです。

でも、地球上の家庭生活や役割自己が一段落する中年期を過ぎると、精神は自由さを取り戻し始めます。「あら、私はいったいこの地球に何をしに来たんだっけ?」と思い出すようになり、言語に頼らない直感的で、精神から自然発生するエネルギーに突き動かされて生きていきたいと思うようになるのだろうという仮説を立てています。そして、それが中年期の野生なのかもしれないなあと考え始めているところです。

続きは、また今度。『精神の考古学』を読んでから、書いてみたいと思います。

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