老いるということ

老いるということ

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

「性別」をテーマにしたブログで、森喜朗さんの女性蔑視発言を取り上げましたが、今度は森さんの後任に川淵三郎さんの名前が挙がると、83才から84才への交代ということで、「老老交代」という言葉が取り沙汰される事態となりました。どうして世の中はこのように性別や年齢に固執するのでしょうか。

性別は生まれる時に自ら選択することはできませんし、年を重ねることも自ら辞退することはできません。これらは私たち人間の属性の一つであり、宿命でもあります。みなさんが同様に持っている性別や年齢について、とやかく言う必要はないような気がします。いつまで性差別や年齢差別をしているのでしょうか。

年齢について言えば、私の師匠と呼べるような人たちは、いわゆる高齢者にあたる人たちです。被害者支援の師匠は79才、心理療法の師匠は78才、組織運営の師匠は69才です。年齢だけ書けば確かに高齢者ですが、中身はまったく違います。現役バリバリの熟達者で、持てる知識と経験は想像を遙かに超えています。太刀打ちができません。だからこそ、師匠たちは若い人たちに持てるものを与え続けているのです。人生100年時代と言われているこの社会では、このような高齢者が活躍するのは当然のことだと思っています。そういえば、私が着物の着付けを習っていた先生は92才まで現役でした。私は着付けの講師の資格を持っていますが、その先生のように92才まで着付けを教えられたらと思って資格を取りました。

今回、この「老老交代」という言葉を聞いて、河合隼雄さんの「『老いる』とはどういうことか」という本を読み直しました。その中には、インディアンの老人たちが、ヨーロッパの老人たちとは比べものにならない「悠然とした落ち着き」と「気品」をそなえているというユングの気づきが紹介されています。インディアンは自分たちの宗教的儀式が太陽の日毎の出没を助けていると確信しているらしいのです。つまり自分たちの存在自体が、太陽や地球全体の循環のために存在しているというのです。まさに「宇宙論的意味」を感じます。

何だか怪しい話になってきましたが・・・年齢を重ねることは宇宙論的な真理に近づいていく過程なのではないかと思うことがあります。事実、私は現在53才で、上記の師匠たちと比べれば、まだまだひよっこですが、自分の使命を宇宙論的に俯瞰して眺められるようになってきたような気がしています。仏教の言うところの輪廻転生を繰り返しながら、自分が今世に生まれてきた使命を改めて問い、この宇宙の循環の中に存在する意味を知ることが、老いるということなのではないでしょうか。

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