からだがあるうちに

からだがあるうちに

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

仏教の昔話の中に、からだのお話があります。むかしむかし、ある旅人が古いお寺で休んでいました。すると二匹の鬼が一人の死体を取り合いながら、お寺にやってきました。旅人は二匹の鬼に見つかってしまいます。鬼同士は「それは俺のものだ」と言い合いながら、一匹の鬼が死体の右腕をもいだら、「違う、それは俺のものだ」ともう一匹の鬼が旅人の右腕をもいで、その死体にくっつけることを繰り返しました。そうこうするうちに、旅人は自分のからだが死体のからだとすっかり入れ替わり驚いたというお話です。つまり、自分のからだというものはもともと無いのだということを示唆している昔話です。仏教の昔話らしいな~と思いました。

からだがあるということは、それが目に見えるということです。目に見えるということは、そこにその人が存在することを認識できるので、その人に会いたい、近くにいたいという執着が生まれます。好きな人ができると、その人に会いたくて仕方がなくなりますね。見つめ合いたいし、声が聞きたいし、体温を感じたいし、くっつきたいという欲求が生まれます。

そういえば、「会いたくて 会いたくて」という西野カナさんの曲がありました。♪会いたくて会いたくて震える/君想うほど遠く感じて/もう一度二人戻れたら・・・/届かない想いmy heart and feelings/会いたいって願っても会えない/強く想うほど辛くなって/もう一度聞かせて嘘でも/あの日のように“好きだよ”って・・・♪恋愛ソングのカリスマと言われていただけのことがありますね。

愛する人を失うと、その人に会うことができなくなります。それは、愛する人の存在そのものを失うことになります。それは、もう二度と会えないということと同義です。それは身悶えするような苦しさです。仏教の四苦の一つに“愛別離苦”がありますが、まさに愛する人と別離しなければならない苦しみのことを言います。

この苦しみは本当に苦しい・・・(涙)。でも、“良薬口に苦し”ということわざがあるように、苦しいことは自らを成長させることができます。「泣いても何も変わらんやないですか」とおっしゃる方もいますが、苦しかったらその感情を素直に表して、泣き続ければいい。泣いて泣いて泣き続けて、その感情をしっかりと抱きしめてあげれば、いつか前を向いて一歩踏み出すことができるのです。たとえ、からだが後ろを向いていても、前に倒れながら進めばいいのです。そうすれば、いつかは笑える日がきます。

でもね、このような感情を味わえるのも、からだがあるからこそです。嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと、楽しいことを感じられるのも、からだがあるからです。だから、からだがあるうちに、この人生を十分味わいましょう。元気なうちに、行きたいところに行って(コロナに気をつけて)、やりたいことをやって、おいしいものをたくさん食べて、愛する人を思う存分愛して、欲求にまみれながら、煩悩の波乗りを楽しむのもまたファンキーな生き方なのではないでしょうか。地獄に落ちそうですけどね(笑)。

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