日曜日の朝

日曜日の朝

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

土日になると息子のクラブ活動の一日練習のお蔭で、お弁当を作ることが多くなりました。今朝も炊飯器のスイッチを入れて、卵焼きのたまごを混ぜていたら、息子が自分で起きてきて、「出発するのが早くなった」と言い放ちました。出発時間から逆算して作り始めているので、「え~っ、お弁当間に合うかな~。何でもっと早く言わないの~」と久しぶりに怒りました。

炊飯器のスイッチを入れたばかりなので、ご飯がない!ロールパンとデニッシュパンを焼いて、目玉焼きとスープをちゃちゃっと作って食べさせながら、写真のキャラ弁などとは程遠い全体的に茶色いお弁当を超特急で作りました。自分が作ったお弁当の写真を撮るなんて初めてのことです。

朝食を食べ終えた息子がまだ食卓に座っていたので「何で座っているの?」と聞いたら、「ご飯食べるから」と笑いながら答えるのです。「えっ?さっきのは朝ご飯じゃないの?」と慌ててご飯をよそい、お弁当の残りのおかずをお皿に盛り・・・と、すったもんだ。ちょっと面白かったので、このエピソードを紹介してみました。

以前のブログで、この息子のことを同居人のようだと書きましたが、自分の子どもという意識が私にはあまりありません。私のお腹の中にいた子どもであることは確かなのですが、1才4か月頃から保育園に通い出した子どもを見て、「あ~、この人は自分の人生を歩み出したのね~」と実感した時から、「○○さん」とさん付けで呼び、人格を持つ一人の人間としておつきあいをしてきました。そういえば、松井秀喜さんのお父さんも「秀喜さん」とさん付けで呼んでいたと何かの雑誌で読んだことがあります。

子どもは親の所有物ではないし、子どもには子どもの人格があり人生があるというのが基本的な考え方としてあることから、自然と息子のことをさん付けで呼ぶようになったのかもしれません。

私たちは気質というものを持って生まれてきます。性格を梅干しに例えるなら、気質は梅干しの種のようなもの、つまり性格の核のようなものです。精神世界で例えると、心の中心もしくは深い部分に魂が存在するというイメージでしょうか。この気質は親が何をしても変えられない部分です。生まれた時からすでに向かう先が決まっているのかもしれませんね。同じ親から生まれたきょうだいでも気質はまったく違っていて、これは外側からは支配することができません。

だからこそ、親は子どもをコントロールせず、子どもが向かう先にたどり着けるように少し離れたところから見守り続けることが必要なのだろうと思います。「親」という字は、木の上に立って見ると書きますから。

ただし、子どもは生まれた時から依存と同時に、自立の道を歩み始めています。児童福祉法でいうところの18才という年齢までは子どもの依存を許容しながら、18才になったら親子共々自立して自由に羽ばたけるように、人格を持つ一人の人間同士として尊重し合いながら、おつきあいをしていけたらと思う日曜日の朝でした。

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