高松塚古墳

高松塚古墳

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

この写真は、奈良県にある高松塚古墳です。7世紀末から8世紀初頭にかけて作られた終末期古墳で、石室の壁画として描かれている女子群像は、日本史の教科書などでご覧になった方も多いと思います。ゴールデンウィーク中に電動自転車を借りて、高松塚古墳や飛鳥寺などをまわったのですが、古墳の緑がまぶしいほど美しいですね。

私は最近古墳に興味を持っています。古墳というのは、3世紀から約400年の間に作られた、土を高く盛り上げた墳丘をもつお墓のことをいいます。墳丘の斜面には装飾や崩れ防止のための石や埴輪が敷きつめられたり、内部にはさまざまな埋葬品が置かれたりしました。まるで権力を誇るかのように、また、あの世に行っても故人が寂しい思いをしなくて済むように、古墳を作ったのかもしれません。

これら古墳が作られた時代を古墳時代といいます。日本の歴史を概観すると、~縄文時代~弥生時代~古墳時代~飛鳥時代~奈良時代~と変遷していきます。

縄文時代は狩猟採集を行い自然と共生していました。縄文時代のお墓は集落の中心にあったともいわれています。弥生時代になり水田稲作農耕が始まり、自然を私物化した生産が行われていきます。各地で水田を中心とする村落が成立し、それらが次第に統合され、初源的な「クニ」と呼ばれる政治集団が生み出されました。ここから、経済格差が生まれ、土地をめぐる戦いが始まります。人はものを持つとろくなことがありません。

弥生時代の中期から墳墓が誕生し、死後も権力を誇示しようと土地を私物化していきます。そして古墳時代の後半には百済から仏教が伝来し、縄文文化と仏教文化の融合が始まります。日本に伝来した仏教は、原始仏教ではなく、釈迦が入滅してからインド~中国~朝鮮半島と約1,000年の間伝来し続けてきた仏教でした。日本に伝来したのは釈迦が説いた原始仏教ではなかったのですね。

縄文時代から飛鳥時代までのこの流れが、今の日本の思想に大きな影響を与えているような気がしています。私は愛と平和の縄文時代がとても好きなものですから、それがどうしてこのように変化してきたのかを紐解いてみたいと思っているのです。そのヒントが、もしかしたら古墳時代にあるのではないかと期待しています。

今月、高松塚古墳の壁画仮設修理作業室の公開があります。幸いにも申込みが受け付けられましたので、ガラス越しではありますが女子群像を拝見できそうです。河合隼雄さんが文化庁長官だったときに、壁画劣化が見つかり、公式謝罪をした月に脳梗塞で倒れられ、11か月の間眠り続けていました。そのときに、「あ~、河合隼雄先生は女子群像や青龍たちと共に眠っているのだろうなあ」と思っていた記憶が甦りました。河合隼雄先生のご冥福もお祈りしてきたいと思います。

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