課題(agenda)

課題(agenda)

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

犯罪被害者支援をしていると、どうして愛する家族が理不尽な死を遂げなければならなかったのでしょうか?その意味は一体何なのでしょう?と問いかけられることがあります。その時に、どのように答えていいのか今でもわからずにいます。

でも、いくつかの手がかりはあります。とはいえ、まだ答えには至りませんし、ご遺族には到底納得いくものではありません。逆にこのように説明したら叱られるかもしれませんが、3つほど私の心に引っかかった手がかりをご紹介したいと思います。

一つめは、親鸞の「臨終の善悪をば申さず」という言葉です。飢饉や疫病で苦しんで亡くなった人たちについて、人の死は仏の説いた「生死無常のことはり」であって、どのような死を迎えたとしても、如来の本願力によって往生するのだから、悲哀に満ちた死も尊い浄土往生であり、崇高であると親鸞は言い切っています。すべての死は往生し自然(じねん)に還るのでみな尊いのです。

二つめは、品川博二の「犯罪者は自分の生きる意味を確認するのに、善意ある隣人を必要としたと言えるのである」という言葉です。犯罪者は途中で断ち切られそうな絶望の中にいる自分の命を、誰かに分かち持ってもらうことによって、自分の生きる意味をはじめて確認できるのだというのです。それはご遺族にとっては残酷な説明なのだと思うのですが、それだけ犠牲者の命が純粋で崇高なのだろうと思うのです。

そして三つめは、ニール・ドナルド・ウォッシュの「すべてのひとの死は、つねにその死を知るほかのすべてのひとの課題(agenda)に役立つ。だからこそ、彼らはその死を知る。したがって無益な死は ―生は― ひとつもない。誰も決してむだ死にはしない」という説明です。

私たちは課題(agenda)を持ってこの世に生まれてきます。ニールの説明では、私たちはこの世で経験したいことを決めて生まれてくるというのです。そして、それぞれの課題(agenda)は唯一無二で、一人ひとり異なります。

被害者の死は、被害者に関わるすべての人の課題(agenda)であり、加害者に関わるすべての人の課題(agenda)でもあるのです。そして、その死を知ることになったすべての私たちの課題(agenda)でもあります。私たちは被害者の死を通して、繋がり合っているのかもしれません。

私が被害者支援で関わっているすべての被害者の人たちの死は、すべからく私の課題(agenda)になっています。その死は私に気づきを与え、被害者支援の道筋を示してくれるのです。すべての死は尊く、そして完璧なのだろうと思います。

with k 4E