花咲かじいさん

花咲かじいさん

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

私はほぼ毎日の記録をノートにしたためています。書く余裕すらない時はそのノートの日付は空白になるので、記録されている日はまあまあ余裕があった日なのがわかります。2011年7月22日の記録には、ある新聞記事が貼り付けてありました。それは、当時から数えて8年前に名古屋市で起きた児童虐待事件について書かれた記事でした。

4歳の男の子が地下鉄の駅にひとりでいた/どうしたのか尋ねる駅員に「埼玉のおじいちゃんの家に行く」/お金は持たず、リュックの中には自分で詰めた下着や靴下/男の子は連絡を受けた母親に連れ戻され、間もなく短い生涯を終えた/家を出る決心を幼子にさせた日常はどれほど凄惨なものだっただろうか、という内容でした。

たぶんこの記事は当時勤めていた大学で読んだものだと思いますが、みるみるうちに涙があふれてきた記憶があります。切なくて仕方がありませんでした。愛する人からひどい仕打ちを受けるという残酷さ、毒蛇のような相手であろうとそこから離れられない無念さ、そんな思いを抱えながら4歳の幼子が家を捨てることを決意した一途さを考えるとたまりませんでした。

子どもは親を選んで生まれてくることはできません。そして自分の意志でこの世に誕生するわけでもありません。だからこそ親は子どもを責任を持って育てなければならないのだと思います。でも、子どもは親の持ち物ではありません。命は誰にも所有できないからです。親は子どもの命を預かって育てているだけなのだと思います。

家族は、支配と競争と摩擦を生むものという考え方があります。この虐待事件のように、親が子どもを虐待するのはまさしく支配です。兄弟姉妹間の競争もあります。夫婦間の摩擦は日常茶飯事かもしれません。家族は仲の良い温かいものというイメージがありますが、それは幻想に過ぎないのかもしれません。

事実、私のところに相談にいらっしゃる人たちは、家族の支配と競争と摩擦で疲弊した人たちです。「お前なんか死んでしまえ」とか「お前なんか産まなきゃよかった」と言い続けられて育ってきた人もいます。そうしたら自分の命を大切だと思えないのは当然のことです。だから自殺未遂を何度も繰り返してしまう人もいるのです。

どうして人は優しくなれないんだろう。この世にある命はみんな尊くて大切なのに。そんなジレンマを抱えながら、日々過ごしています。ちょっと今日は私自身疲れているのかもしれません。やることが多くて体が散り散りになって、燃えカスみたいになっているのかも・・・とつぶやいたら、「それは大事な燃えカスで、花咲かじいさんと出逢えたら花を咲かせてくれるかも」と愉快な仲間たちから返事がありました。この世の中には優しい人がたくさんいます。そう実感した131回目の切ないブログでした。

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