善意ある隣人
善意ある隣人

オンラインカウンセリングのカナムーンです。
昨日、埼玉県で地域医療に従事していた医師が、猟銃で撃たれて殺害されました。報道されている内容はどこまで信頼できるかわかりませんが、死亡した加害者の母親の在宅医療をめぐって何らかのトラブルがあったのではないかと推測されています。
医療従事者が犯罪被害を受けて亡くなった事件が、昨年12月17日に大阪市北区でもありました。容疑者が死亡したことから、その真実が解明されないまま事件は幕を閉じることになりますが、被害者やそのご家族・ご遺族の苦悩は生涯続いていきます。私たちの仲間である臨床心理士も事件に巻き込まれて亡くなっていますので、本当に辛いことです。心からご冥福をお祈りしたいと思います。
このように人を治療する医療従事者が被害に遭うことは珍しいことではありません。病気が治らないからという理由で憾みを買ったり、拡大自殺の巻き添えになったりするケースも見られます。医療は万能ではありません。人間が行うことには限界があります。
このような事件があるといつも思い出すことがあります。以前読んだ品川博二さんの著書の中にあった一節です。
(前略)私たちを死の目前で迷わせ、この世の未練に苦しませるのは、これまでの生きて積み重ねてきた「憾み」に他ならない。この時の「私の憾み」にピリオドを打てる方法を、私自身の内に求めてもどうやら見当たらないようなのである。
それは他者によって外から「訪れる」ようである。私の外の存在する他者によって、私の命を「シェアリング」してもらう時、はじめて可能なのである。この他者とは、(中略)善意のある隣人であれば充分なのである。適切な例ではないが、小学校に乱入して無垢の子どもたちを殺害した犯罪者は、自分の「生きる(死ぬ)意味を確認」するのに、子どもたちという「隣人」を必要としたとも言えるのである。
この最後の一文がずっと心に残っています。犯罪者は自分の「生きる(死ぬ)意味を確認」するために善意ある「隣人」を必要とするのだという説明です。
犠牲になった埼玉県の医師も、大阪市の医師や臨床心理士やその他の人たちも、善意ある「隣人」だったということなのでしょうか。犯罪者の「生きる(死ぬ)意味を確認」するために必要だった「隣人」としてこの世の命を終えたということなのでしょうか。
このような理由を、被害者やそのご家族・ご遺族は納得できるはずがありません。でも、個々人が持っている「私の憾み」の終止符をどのように打てば、隣人を巻き込むことなく安らかに生きる(死ぬ)意味を確認することができるのかを、社会全体で考えていくことが必要なのではないかと、殺人事件が起きるたびにその思いは強くなっていきます。
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