ケアのつづき

ケアのつづき

オンラインカウンセリングのカナムーンです。

前回、ケアとコアについてのブログを書きました。子育てや介護などのケアは、社会システムからはじかれた女性が行うことが多く、それが当たり前とされてきたことは、正義ではないのだという論争がなされてきたようです。ケアvs正義という構図ですね。この二元的な論争については、何だか違和感がありました。

それは、旧石器時代に話が遡ります。マンモスなどを狩猟していた頃は、力の強い男性たちが集団で狩りをし、女性たちは子どもを育てながら木の実などを採集して、成果物を分配しながら生活をしていました。このような生活形態は想像に難くないことだと思います。

そして、いつも十分な成果物を手に入れることができるとは限りませんから、厳しい環境で生活をしていたと考えられます。そうすると、この時代は高齢者が生き長らえることは難しかったかもしれません。しかし、旧石器時代の地層からは、歯のない高齢者の頭蓋骨が発見されているのです。つまり、この頃から高齢者へのケアは始まっていました。

子育てや介護というケアは、人間がこの地球上に現れてから、当然のことのように行われてきたのです。狩猟採集の生活様式を支える社会システムのなかで、お互いを支え合いながら、役割分担をして、ケアを行うのは関係性のなかで生きる人間には自然であり、また正義でもあったのだと思います。そこに、ケアvs正義という二元論的な構図はありませんでした。

それが、狩猟採集から農耕を主とする生活に変化してから、生産性を重んじる社会システムへと変化していきました。ちょうど中沢新一さんの『精神の考古学』を読んでいるところですので、中沢さんの言葉を借りるなら、象徴性(言語・記号化)、交換性(市場での交換)、増殖性(剰余価値)が農耕文化から生まれたのです。

この頃から、全てが二元論的な価値に変換されていきます。感情は複雑で実体のないものですが、この感情を言語化することで、二元論的に規定してしまうのです。善か悪か、全か無か、男か女か、右か左かなど、何でも切り分けて分類するようになっていきます。ケアか正義かという分類も、とかく二元論的な分類です。

人間の本質を考えるときに、母親と子どもの関係性にも目を向ける必要があろうかと思います。胎児は母親の胎内で母親と一体となって過ごしています。人類の系統発生のプロセスを再体験しながら、胎児の好みと母親の好みは同化していきます。この世に生まれ出てからも、胎児の世界は全体性を持った世界、つまりどこまでが自分なのかを明確に感じられない世界にいます。そのときに自分と世界を繋ぐ手がかりになるのは、母の声であり、母の匂いであり、母のおっぱいなのです。それほど母子の密着性は強く、子どもの意識の分化が始まるまでの、母子一体感は人間発達の大きな特徴でもあろうかと思っています。

このようなことを考えると、子育てや介護などのケアは、誰がどの時期にどのようにケアするのかを、適切な役割やタイミングを見ながら考えていけばよいのではないかと思っていますが、そのケアが社会システムからはじかれた女性に背負わされているという観点からすると、それは現代社会の問題として浮かび上がってきます。二元論的な考え方を辞めてしまえば、うまくいくような気がしますが、この価値観を手放すことは現代社会を生きる私たちには難しいことなのかもしれませんね。

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